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元日の光-5 [散歩や道草]

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薬王院の牡丹は本堂前の斜面に植えられています。今は貧弱な幹からわずかに赤い芽がのぞいているだけ。
その斜面に沿ってゆるやかな階段を上ると、六地蔵の並ぶ踊り場があり,
踊り場から見上げた正面に、古い墓石を積みあげた塔のようなものがあります。
墓石は舟形の輪郭をもち、菩薩さまや地蔵さまが刻まれています。
その一つに、木漏れ日がスポットライトのようにあたっていました。
江戸時代の墓石は、形がやさしく、大きさは慎ましやかです。

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SILENT

享保年間の石工さん
誰をモデルに彫ったか興味深いですね
信女とはお幾つくらいなのか
by SILENT (2013-01-09 17:30) 

さゆり

薬王院は、姉のアパートの近所です。一度姉と一緒に牡丹を写しに行きました。東京の真ん中に、こんな素敵なお寺さんがあることに吃驚しました。
by さゆり (2013-01-09 20:35) 

cafelamama

関係ない話ですが、
わが家の先祖のひとりに、徳川斉昭公お抱えの石工、
大内石可、という石刻の名人がいたそうです。
by cafelamama (2013-01-09 20:37) 

tree2

熊野古道付近の寺で、古い時代の墓石と思われるものを見たことがあります(江戸よりも古い?)。なにも刻んでいない、小ぶりな西瓜ほどの丸石でした。
たくさん見たわけでないので断言できませんが、私は以下のように考えています。
戒名を石に刻んだりするのは、寺が戸籍の管理をするようになってからではないか? 江戸の庶民の女性は信女が多いようです。
墓石が現在のようないかめしいものになり、同時に戒名も院殿とか大姉とか仰々しくなったのは、明治以後なのでは?
軍人の家庭が、結婚式を神社でおこなうようになり、七五三のお詣りも軍人家庭からはじまったそうです。墓石や戒名についても同じことがいえるのではないかと。
by tree2 (2013-01-09 20:56) 

tree2

SILENTさま
補足です。
立派な墓石やものものしい戒名は、武家社会には江戸時代からあって、明治以後、軍人家庭がその習慣をとりいれ、やがて庶民にも及んだのではないかと思うのです。

さゆりさま
薬王院の、小さいけれどきりりとひきしまった山門。灌仏会の前後、山門の手前から見ると、山門で区切られた空間いっぱいに薄紅色の枝垂れ桜です。オススメの眺めです。牡丹の季節とちがい、人もいません。灌仏会当日には花見堂も見られます。

Cafelamamaさま
そういえば、私の先祖は加賀藩の上級武士だったそうですが、なかには旅役者になった人や、貧乏絵描きもいるそうです。維新後、当主はバカ正直に三重マルがつく武士の商法でどん底まで転落。明治生まれの祖母は、惨憺たる人生だったようです。
三重マルのバカと三文エカキ。それって私のことじゃない? 血筋だなぁ。
by tree2 (2013-01-10 00:12) 

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